誰にも何にも喋れないのであれば、誰も見ていないインターネットに書けばいいのではないか、と思い立ち、画面に指を滑らせている。

 

 

わたしの中にある陰鬱さは淋しさと背中合わせの、何ら変わり映えない普通のものだ。昔からずっと心の隣にあったけれど、一人で暮らし始めてからより増した。暗い本や映画や音楽を読んで均衡を保たせる。ナボコフ谷崎潤一郎で自分の少女性を切り裂き、主人公の女の子が辛そうな映画ばかり見て、平賀さち枝とか大貫妙子とか音楽をApple Musicから垂れ流した。季節毎に恋をしてみて、渋谷駅や中野のまんだらけや幾つかのアイドルや音楽はアレルギーになった。好きだった人の顔は横顔しか思い出せない。東京は目まぐるしかったけれど、取るに足らないサブカルチャーの一端だった。

 

 

少しだけ歳をとり、眠れない夜にたまに顔を覗かせてくる不安定とはなんとか仲良くやっていた。この数年で大切な人や財産みたいな音楽や経験が目に見える程増えたから、まあ続けていけば何とかなるでしょ、と思っていた。

 

 

不思議なもので、急にできなくなる。精神のイップス、心と共に身体まで止まってしまった初冬のある日、メジャーリーガーになった気分だった。

 

 

回復を目指して朝や夜を繰り返しているけれど、日を重ねる毎、堕ちるとき深く堕ちるようになる。コンクリートの側溝におちたゴミがどんどん深く挟まっていくみたい。手を挙げて、誰かたすけて、と叫ぶのはできない。もう散々してきて、そんな自分を客観視するのが耐えられない。でも一人で悶々としていると本当に道を外しそうになるのでこんな風にこぼしてしまう、考えうる中で一番ダサい。

 

 

愛する友人や好きな人の苦しい気持ちは幾らでも聞ける、恥ずかしいことではないと感じることが出来る。辛い時は頼ってほしいし、しなないでほしいし、元気で居てほしいと心から願っている。それなのに、わたしもこれを後何年も誰かにしつづけるのかと思うと、足がすくむ。はやく大丈夫になって、誰にも迷惑をかけずに居たい。美味しいものを美味しいと伝えて、能天気なわたしになりたい。晴れてたら楽しくなって急にはなやしきに行ったりする、小さなことで不貞腐れてすぐに笑顔になるわたしをしたい。願うことなら出来るから、まだマシか、

 

 

愚直にひん曲がりつつあるけれど、それでもわたしは光を望んでいる。生きてたい、まだ叶えてないことが沢山ある。もう少しだけがんばる、さよならなんて言えないから。